Schacht 引退す。
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1959/1960 シャハト、引退す。
大変優秀なスタッフがシャハトの下で働いており、シャハトの製品の品質の高さは良く知られていた。何年にもわたり、注目に値する連帯感が生まれ、120名の従業員は「家族」として受け止められていた。シャハトの部門の上司―あるいは従業員から簡単に「光学屋」と呼ばれたのが、クリスティアン・ウルリヒ(Christian Ullrich)である。
1959年、ハインツ・ゲルテンボス(Heintz Goertenboth)が、シャハトの製造監督として加わった。ゲッツィンゲンにあるツアイスの子会社である顕微鏡工場からウルムへと派遣され、コンスタンティン・ラウヒに充てた、ドナウの工場への専門的な変革のためのリストを携えていた。ゲルテンボスの報告によれば、シャハトはたびたび、ミュンヘンからオーヴェルエルチンゲンへと製造工程を観察するために赴いている。しかし、彼は決して、製造工程に介入したりはしなかった。しかしながらシャハトは、ウルムで行っていたのと同様、占領下でのクリスマスのような社交の場には出席していた。
1960年の2月25日、以前のアルベルト・シャハト株式会社は、合資会社へと変更された。その年の暮れ、今や70代になっていたシャハトは、会社から引退した。彼は自分の所有分を、コンスタンティン・ラウヒに寄贈する。シャハトへの部品供給は、すべてラウヒの企業体によって行われ、シャハトという確立されたブランド名は、レンズ製造の最後まで使用された。1960年前後、特にウルリヒが導入した試験的なメソードという大きな背景により、ウルムで製造されたレンズの質はすばらしいレベルに達した。シャハトの製品は、1960年、ケルンのフォトキナでひとつのブースを使って展示されたのである。
※シャハトの生年が1890年2月なので、1960年初頭には70歳になっていました。
※これによって、シャハト社の製品開発が途絶えた、ということではなく、これから取り上げる予定のS-Travegon 35mm/f2.8、Travegar 100mm/f3.3、Makro-Travenar 50mm/f2.8、Travenar 35mm/f3.5、などの興味深い製品が開発、販売されています。
※このころから、日本のカメラやレンズの「襲来」が始まって、ドイツの光学産業の行く末には、ちょとした暗雲が立ち込めてきます。
※シャハトの会社が閉鎖されるころの描写を見ると、大変興味深い(日本の定説とは違う)ことや、胸の痛むような部分が頻出します。そこは、少しだけ整理してから……。
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