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2019年10月16日水曜日

シャハト社の終焉

シャハト社の終焉 日本製のカメラやレンズの発展とその流入に加え、ドイツ写真産業の経営構造自体が経済的困難に置かれており、それは、コンスタンティン・ラウヒの企業体の内部でも起こっていた。それは、工学分野の恒久的な将来の発展を困難にするものだった。グロッケラウ金属工場(MGO)は、今や注文生産、ハイドロマティック(変速機)、そしてシャハト社という三つの中核的な分野に部品を供給していた。それゆえシャハト社には、MGOでシャハト社を受け持つ一部を、その傘下に収める必要が生じた。MGOは、シャハト社の専門性を高く評価しており、レンズの適切な価格はシャハト社が決めることになった。しかし、のような状況の大きな要因は、ラウヒの企業体の中で光学事業が占める割合が非常に少なくなり、それゆえ技術的に遅れることになった点にある。ベルテレが設計したような、より複雑なレンズを設計できるようなコンピュータは、まだ存在しなかったのである。基本的に、シャハト社のように技術的な選択肢を持たない停滞した光学産業は、カメラ市場のあらゆる局面で、致命的な欠点を備えることであった。

 1968年、多くの光学系の従業員は解雇された。クリスティアン・ウルリヒは、一眼レフカメラのためのレンズから手を引き、規格が一様な映画上映用のレンズのみに集中することを主張した。なぜなら、それはレンズの枚数が少なくて済み、複雑な機構も不要なことから、実際のコストを削減することができるからである。また、上映用レンズの市場においては著しく重要な、個数を期待できたからでもある。いずれにせよ、光学分野は遅かれ早かれ、閉鎖されることは明らかだった。

 しかしながら、明らかにある意味でラウヒの企業体自体が限界に達していた。彼の企業体の中核である自動変速機は、長い目で見ると、競争力を維持するためにはより大きな投資を必要としていた。結局のところ、国内外での自動変速機部門への旺盛な需要は、高い生産能力を彼に要求していたのである。しかし、それはウルムには存在しなかった。自動変則装置の部門は、基本的には一日24時間操業していたのだが、ラウヒの一族は、更なる投資のための資金を欠いていた。典型的な中規模の会社であれば倒産していたのだろうが、そのようなことは無視して、彼はできれば「世界規模」のプレーヤーとなりたかったのである。しかし、1968年から69年頃にかけて、ラウヒの一部の企業は、徐々に大企業であるレックスロッドとマンネスマンの傘下に入り、最終的には、1971年、マンネスマンとボッシュに吸収された。1970年から74年にかけて、コンスタンティン・ラウヒの所在はまだウルムのアドレス帳に掲載されてはいたがードナウ渓谷のリストシュトラーセ3番地―しかし、他の「ヒドラウリックス企業集団」と「精密エンジニアリング企業集団」は大きく再編され、新しい経営者を迎えて消滅した。

 このような変化と成り行きは、もちろん、アルベルト・シャハト合資会社の将来的な売却という無残な結果を予見させるものだった。クリスティアン・ウルリヒが報告しているように、マンネスマンは買収はしたものの、会社の仕事を委託することによって自らの企業イメージが低下することは許容できなかった。この局面において、クリスティアン・ウルリヒが米国から帰国したのだが、そこで彼は、コンピュータと接続するためのセントロニクス社の、鋳型(?)の設計図用のプリンタを持ち帰った。このノウハウのために必要とされた精密機器は、シャハト社にとって疑いもなくプレゼントだった。もちろんそれは使用されねばならなかったが、しかし、事前の準備、そしてほとんど不眠不休の努力とが、この新しい機材を構築するために必要だった。スタートさせるために、ニックスドルフによって専門家がリクルートされた。この操作部門を構築するにあたり、シャハトのチームはほとんど他の仕事を見つけておらなかったこともあり、この鋳型の設計図を印刷する従業員となった。 フリッツ・ラウヒは、父親の遺産をあきらめることができず、その50%にこだわった。これには時間の制限があったにせよ、新しい共同経営者の継続的な投資が、フリッツ・ラウヒを迎えることを不可能とした。彼は、それを売却することを余儀なくされた。

 コンスタンティン・ラウヒは、その生涯にわたり、ガラスは他のものと同様な物質であり、それゆえ、商業的にはその外見がぼろきれのようであってはならないと考えていた。シャハト社を継いだ企業は、これについては理解していたが、それを継承することには興味はなかった。実際の製造は、ナルボルン=ウェッツラーにあったヴィルヘルム・ヴィル社という光学企業のレンズ部門が担った。このような結果について、ウルムにあった「南西新聞」は、1969年10月22日の記事で次のように書いている。

「ラウヒ、その製品を調整する。 ノイ=ウルムにあるコンスタンティン・ラウヒの合資会社は、将来的に自動変速装置と精密機械に集約されることになった。これは昨日、営業部門が明らかにしたものだ。つまり、シャハト社の製造部門はナルボルンのウェッツラーにあるヴィルヘルム・ヴィルの光学部門に売却されるということである。自動変速装置のうち、熱を使わない部門は、ユーゴスラヴィアの会社に売られる。

 しかし、ナルボルンのウェッツラーにあったヴィルは、この申し出を完全には履行しなかった。1970年になり、映画上映用のレンズのためのシャハトの製造ラインをすべて引き受けたが、それは小さなフィルム(8ミリ、スーパー8、そして16ミリのフォーマット)のためのレンズには、ドイツ製品が比較的堅調な需要を持っていたからである。それゆえ、ヴィルはVario-Travenon は作り続けたが、その外見は、比較的技術を必要としない射出プラスティックに徐々に変更されたヴィル社のTravenonは、数種類製造された。

 たとえば8ミリの映写機用の投影レンズは、ローライ、バウアー、ポルストその他に使用された。H. Thieleによれば、ヴィルは、―特に指定されてはいないがーそれを未だに市場に出していた。「市場の反応を見るために、1978年、シャハトのレンズはフォトキナでアナウンスされたが、製品自体はそれには含まれなかった

 1981年、ヴィル自体がライツに吸収された。今や、シャハト社の以前の競合者たちのレンズ設計が、シャハト社にとって代わったと推測するのが安全であろう。なぜなら、シャハト社のような会社が、以前の競合者たちの発展に追いつくことは難しいからである。シャハト社のレンズのためのサービス、修理の保証は、ヴィースバーデンのオットー・ヘルフリヒトの機械工場の光学部門が請け負うこととなった。

(一部省略した個所があります)

2015年5月1日金曜日

Travenar 85mm, 90mmの種類。


 左から、ミュンヘンのLTMの85㎜、ミュンヘンの85㎜のexakta、カメラに嵌めてあるのは、ulmの90㎜のexaktaです。

 ミュンヘン時代のschachtの85ミリは、LTMで十分と思っていたのですが、海外のオークションを眺めていると、ミュンヘンのexakta、m42の85ミリ(しばらく手を出せませんでした)、ウルムのタイプⅠの85ミリ(ウルムかあ、と思って……)、それからタイプⅡ以降の85㎜等々があって、どうしたのでしょう。

 レンジファインダー用のレンズは、距離計との連動の必要があるため、このような長さになるのでしょうが、他のマウントに比べてあまりにも長さが違う=レンズ構成が違うことは明らかです。

 そういえば、読み飛ばした個所に、ミュンヘン時代に「レンジファインダー用のものと、一眼レフ用のレンズの製造ラインを分けた」という記述があって、「どういうことかな???」と思ってはいたのですが。また、「schachtは、85ミリのレンズを温存していた」、という個所もあり、こういうことだったのか! とは思いましたが、まだその理由は十分に分かっておりません。

 写りが違うのかな?

 明日から、少々遠出しますから、exaktaの2本は、持って出ようと思います。うーん。

 

Travegar 100mm/f3.3, exakta mount alliance are go!


 主に、ミュンヘン時代のschacht を探していたのですけれども、他にもいろいろとulm時代のレンズがレーダーに引っかかってきます。travegar と言えば三枚三群構成の、純正のトリプレットですね。トリプレットには、何度か美味しい写真を頂戴しましたので、今回もちょっとワクワクなのでした。



1962年~1963年。
 Travegar 199mm/f3.3。最少絞り値22、最短撮影距離0.9メーター、302グラム。

 シャハトの105㎜の焼付用レンズである105㎜を改変したもの。先端部を分離して、m42マウントのベローズに装着できる。と書いてあります。

 上の作例は、開放で撮影したもの。前後のボケも、自分には好ましいものに見えました。


 だれだか分からないから、大丈夫かな。


 ふむふむ。シャープで、僕の好みです。


 気味が悪い、などとは言えないですね。


 腰痛の身には、かがまなくてもお花が撮れるのはありがたい。


 この質感は……。シャハトには、シャハトらしさが確かにある、と言えるでしょう?


 路傍の小さい花。


 個人的には、コントラストが高い絵が好みです。


 そういう季節ですからね。



 最後は、say it with flowers。

 これは、とても良いレンズだと思いますヨ?


2015年3月22日日曜日

S-Travegon 35mm/f2.8 無限遠がでない……! が。



昔ご紹介したパンフレットの裏に、レンズの枚数を記録したものがありましたが、そこでは、S-Travegon 35mm/f2.8が、7枚3群として、最多の枚数を誇っておりました。



p87

1961:より明るい広角レンズ(訳注:シャハトの引退後)
 1961年の初頭から、シャハトは、既存のTravegon 35mm/f3.5 (6枚3群)に続いて、135ミリカメラ向けの、より明るい7枚のレンズからなるS-Travegon 35mm/f2.8 (7枚3群)を追加した。最小絞り22、最短撮影距離0.5メートル、194グラム。

 この、ベルテレによって計算されたトリプレット構造のレンズは、スクリューマウント、あるいはEdixa/Praktica/Pentacon/Exaktaといったバヨネットマウントで利用することができたが、加えてPraktina IIa にも供給された。Praktina用のS-Travegon は明らかに機械的に変更されていたが、なぜなら普通のM42用のこのレンズとは、絞りの回転方向が反対になっているからだ。


とあり、これもベルテレの設計とされていますが、根拠は明示されていません。

翻って、普通の(?)Travegon 35mm/f3.5を見ると、



 少し違いますね。しかし、「枚数の多いことは良いことだ」と信じる饕餮にとって、これは、見逃せないアイテムなのです。甲殻だし(へへへ)。

 ということで、海外の市場を見張ること数日、なんと、その激情のあまり、3本も入手してしまうことになります(ものすごく安いものも、ある程度の値段だったのもありました)。

 さて、試写だ! ということで、α7sに国産のexaktaのアダプタを介してレンズを嵌めてみたら……。無限遠が出ません。

 フーン、と思ってもう一つのexaktaマウントのレンズを嵌めてみたら、これも。

 さて、どうしよう。以前、山崎レンズ様に、10メートルまでしかピントが届かないangeniaux を持ち込んだとき、内部の部品を0.1ミリほど削っていただいて解決したことを記憶していて、これは、マウント・アダプタを0.1ミリくらい薄くすればよいのだな、とは思いましたが……。

 これは単純に、レンズと接するマウント面の金属プレートを外し、プラスティックのボディをやすりで研いだら、とは思うのですが、それよりは、海外製のオーバーインフ気味の製品にするほうが簡単かな、とも思いつつ。しかし、α7sの金属製の爪にははまらない、という噂もあり。

 結局、三晃精機さんのライカLM→ソニーαのアダプタに、なぜか家に転がっていて使い道のなかった極めて短いnovoflexのexakta→LMのアダプタを連結してみましたら、見事に短く(2ミリほど)なって、無限遠がでるようになりました。おめでとうございます。この写真は、家内が持って行ったカメラ撮影用のカメラが戻ってきたら、アップしようと思っています。



 しかし……、その報いとして、0.3メートルまで寄れるはずのレンズなのに、1,5メートル程度しか寄れない! 絞り込んでも無理! というのが現状ですが、それでも良ければ以下にお目にかけます。



 あいにくの曇り、芦花公園は、隠居したら住みたいような閑静な街並み。しかし、ちょっと不便かもしれません。


 錦鯉。


 この日も、曇り空。しかし……。

 個人的には、レンズは、これだけ良く写ったら、もう充分なのですが。


 やはり、快晴の日が好きなのですが。


 おお。無限遠はでますね。


 近場は、やはり不得手なようです。遠景のボケ味は? まあ、こんなものでしょう。


 良い色合いのようです。


 まあまあ?


 schacht の色合い、のような気持ちがします。

Schacht 引退す。




P75

1959/1960 シャハト、引退す。


 大変優秀なスタッフがシャハトの下で働いており、シャハトの製品の品質の高さは良く知られていた。何年にもわたり、注目に値する連帯感が生まれ、120名の従業員は「家族」として受け止められていた。シャハトの部門の上司―あるいは従業員から簡単に「光学屋」と呼ばれたのが、クリスティアン・ウルリヒ(Christian Ullrich)である。


 1959年、ハインツ・ゲルテンボス(Heintz Goertenboth)が、シャハトの製造監督として加わった。ゲッツィンゲンにあるツアイスの子会社である顕微鏡工場からウルムへと派遣され、コンスタンティン・ラウヒに充てた、ドナウの工場への専門的な変革のためのリストを携えていた。ゲルテンボスの報告によれば、シャハトはたびたび、ミュンヘンからオーヴェルエルチンゲンへと製造工程を観察するために赴いている。しかし、彼は決して、製造工程に介入したりはしなかった。しかしながらシャハトは、ウルムで行っていたのと同様、占領下でのクリスマスのような社交の場には出席していた。


 1960年の2月25日、以前のアルベルト・シャハト株式会社は、合資会社へと変更された。その年の暮れ、今や70代になっていたシャハトは、会社から引退した。彼は自分の所有分を、コンスタンティン・ラウヒに寄贈する。シャハトへの部品供給は、すべてラウヒの企業体によって行われ、シャハトという確立されたブランド名は、レンズ製造の最後まで使用された。1960年前後、特にウルリヒが導入した試験的なメソードという大きな背景により、ウルムで製造されたレンズの質はすばらしいレベルに達した。シャハトの製品は、1960年、ケルンのフォトキナ
でひとつのブースを使って展示されたのである。

※シャハトの生年が1890年2月なので、1960年初頭には70歳になっていました。

※これによって、シャハト社の製品開発が途絶えた、ということではなく、これから取り上げる予定のS-Travegon 35mm/f2.8、Travegar 100mm/f3.3、Makro-Travenar 50mm/f2.8、Travenar 35mm/f3.5、などの興味深い製品が開発、販売されています。
※このころから、日本のカメラやレンズの「襲来」が始まって、ドイツの光学産業の行く末には、ちょとした暗雲が立ち込めてきます。
※シャハトの会社が閉鎖されるころの描写を見ると、大変興味深い(日本の定説とは違う)ことや、胸の痛むような部分が頻出します。そこは、少しだけ整理してから……。



2015年3月2日月曜日

schacht 拾遺 その一。 S-Travelon 50mm/f1.8

 などと、年末からschachtのレンズに目が向かっていたのですが、当然、ウルム時代のレンズも網に掛かってまいります。

 schachtで一番明るい(らしい)、Travelon 50mm/f1.8についてですが、私が読んでいる本には、以下のように記述されています。

P71

1957年のFoto Almanacには既に、シャハトによる、新しく優れて明るいノーマル・レンズへの言及がある。

「もうひとつの注目すべき新製品は、ベルテレが設計した6枚4群のレンズ・システムがあるが、それは焦点距離50mm、最小解放値2、135ミリカメラのためのものである。」(Foto-Almanac 1957:172)

 この記述は、後の”S-Travelon“に関連していることは明らかであるが、しかしながら、それは解放値1.8のものとして実現された。それゆえ、このシャハトのレンズは、1958年に市場に登場したと推測することができる。

□S-Travelon f1.8/50mm(6枚4群)。M42とエキザクタの二つのマウント。最小絞値22、最短撮影距離50cm、226グラム。


 Foto Almanac が言及しているとなると、このTravelon f1.8/50mmは、ベルテレの設計と考えてよいのでしょうね。

 

 私としたことが、数分前までこれがexaktaマウントとは気づかず、屋外にもって出なかったのは失点です。そのうちに、遠出しましょうね。

 ちなみに今日は、久しぶりのお休みなので、Travenar Munchen 85mm/f2.8をもって、買い物に行っておりました。




2015年1月26日月曜日

A. Schacht Munchen 1.0

ぞわぞわと増殖しつつあるschacht のレンズたち。うち、ミュンヘンはまだ3本。
もう一つは、いま旅行中。右端は、Wirgin社のedixa16。スパイカメラ、なんていわれていました。Travegar 25mm f2.8です。フラッシュは省かれていますが、スパイがフラッシュを炊くのか?
レンズ名に、Edixa-と付くのは、Wirgin社のカメラ用のレンズなのでしょうか。

1948/1949 その始まり:Schacht Muenchen


現存する資料によれば、アルベルト・シャハト社は1948年12月14日、ミュンヘンで株式会社として設立され、商業登記所への登録は1949年7月21日に行われた。しかし、既にこの会社の初期段階において、この会社の実際の所在地に関していくつかの混乱が生じていたのだが、それは、メミンゲン(訳注:ウルムの50キロ南)の地方裁判所の問い合わせが、アウグスブルグの商工会に送られていたことが示している。それは、1949年7月21日、設立から半年過ぎたころの、>ノイ・ウルムにある企業、アルベルト・シャハト株式会社<という件名のものである。

>>ミュンヘンのロトブッヘン通り75番の工場長アルベルト・シャハトは、この会社のディレクターとして、商業登記簿への登録を申請した。この会社は、主に光学機を製造している。同社の事務所は、ノイウルムのホルツ通り9番にあると申告されている。この申告に対して、意見を求める。<<

(訳注)以下、暫定的に省略。概略を記すと、登記された住所が混乱していたこと、最初期は機械部品、旋盤製品などのつつましい生産から始まったこと、その資本金、アメリカからの輸入原材料等々、あまり興味が持てなかったのでスキップしてしまいました(後で読み返しますかも)。

(訳注)ノイ・ウルムという地名は、随所に登場する。未だ地図を参照したわけではないが、シャハトの実際の工場は、ノイ・ウルムにあったのでは、という推論も成り立つ。都市ウルムが蒙った戦火のことを考えると、当然のように思われたりするのだが、まだ未調査です。


★1949年に続く数年間のレンズ (訳注)1954年にウルムへ移転するまで

 驚くべきことに、ヴァルター・ヘーリンク(Walther Heering)が1953年に発表した『フォト=マガティン(Photo-Magazin)』のような非常に重要な専門誌には、シャハト/ミュンヘンの製品はリストされておらず、その他の言及も見い出せない。『写真の天空における新しい星々(Neue Sterne am Photo-Himmel)』―このキャッチフレーズで、1952年から1953年にかけて、シャハトは恐らく初めて、彼の製品に注目を集めようとしていたのであるが。

 35ミリカメラのための交換レンズが主に生産されていた。それらにはまず、大別すると二つの異なったマウントがあるのだが、すなわち、当時供給されていた35ミリ判の一眼レフ向けのものと、同様に当時のライカのレンジファインダーのためのM39マウントのものである。

 これは確かに大胆な戦略であった。なぜなら、戦後においても、アマチュア写真家の大部分が、価格的に有利な、装飾の施された箱型カメラ、あるいは大抵は固定レンズを搭載したレンジファインダー方式のカメラを使用していたのである。レンジファインダー・カメラは、1950年ころからますます、ユーザーの要求に応じるためにレンズ交換式が数を増やした。最も普遍的なカメラである一眼レフカメラは、戦後の大抵の人々には手の届かないものだった。シャハトによって製造されたものに限れば、その製品には先見の明があり、基本的には、将来的に需要が増えるかも知れないものだった。シャハトが試みたのは、比較的早く、将来性をもったカメラ・メーカーの『ドアに足を突っ込む』ことだった。1953年、ヴィルギン社(Wirgin)のカメラ「コメット(Komet)」の広告では、カメラの下にシャハトの二本の交換レンズが見られるが、それはすなわち、85mm/f2.8と、135mm/f3.5の二本のTravenarである。


(訳注)Wirgin社のKomet は、M42マウントの一眼レフ。

(訳注)M42は、Kamera Werkstatten社の一眼レフであるプラクチナ、Wirgin社の一眼レフであるKometなど、エキザクタはJhagee社の一眼レフであるExakta向けなのだろうが、他にも当てはまるカメラはもちろんあるだろう。
 
(原注68)Taven-という名称は、あるインターネットのフォーラムでは、数年来知られるようになった冒険作家であるB. Traven(1882? – 1969)と関連付けている。Travenは、Ret Muratという名前でも本を出版しているが、彼の伝記は、すべてを明らかにしてはいない。2009年8月にベルリンで開かれた 「社団法人国際 B. Traven協会」(クリストフ・ルッズツーヴァイト博士)でその点が照会されたが、何も証拠は見出されなかった。それゆえ、シャハトについてのこの憶測は、根拠がないとされねばならない。

(訳注)訳者が入手したミュンヘン時代のレンズのうち2本にはオリジナルと思われるケースが付属していたが、その上蓋上面には「TRAVE」と記され、スポットライトか拍手を表しているのだろうか5本の光線、あるいは光背のような線が描かれている。ラテン語系のtraveには、イタリア語のtraveがあり、それと同根のフランス語のtravee(特殊記号は省略)があるのだが、後者には、「椅子の列に座っている群衆」の意がある。「皆が注目する」という意味なのだろうか? あるいは、彗星の尾? 「trave(l)=旅行」というタレントの連想ゲームのようなものよりは、むしろ信憑性があると思う。ちなみに、僕のラテン語の辞書は誰かに使われていて行方不明。イタリア語の辞書もなくなっていたので、職場のものを使った。また買うからよいけど(高いので少しだけプンスカ)。

ちなみに、ケースには、「Schacht」とは記載されてもいない! 
あたかも、「Trave」が商標のようでもある。非常に興味深い。 

★最初の写真レンズたち(35mm用)

 シャハトによる最初のレンズは、「Travenar」あるいは「Albinar」と名づけられた。その二つは、実際には異なった構造をとっていた。ひとつは、50mmと135ミリのための張り合わされたトリプレット(4枚3群)であり、同様にもうひとつは、85ミリと135ミリのための、これは純粋に四枚(4枚3群)の望遠レンズ構造のものだった。85mmと135mmのTravenarには、プリセット絞り、あるいはばねによって絞り込むトリガーが装備されていた。どちらの絞りも、開放値に設定した後、手動あるいはボタンを押すことで、すばやく設定した値まで絞り込むことができる。例外は、単に絞りヘリコイドにクリック感のあるだけのM39マウントの50mmの標準レンズであり、これは他のM39マウント用レンズでも同様だった。

ノーマル・レンズ「Travenar」50mm/f2.8(4枚3群)
 カメラ側には、クローム鍍金された真鍮のマウント部、軽金属で作られた焦点リング、ガイド付回転部、プリセット絞りとばねで動く絞りがM42とエキザクタのために加えられた。
 最小絞りは22、最短撮影距離は1m、重さ122グラム。




 ミュンヘン時代のシャハトの製品の中で、このレンズにはほとんどサンプルが存在しない。このシャハトのノーマル・レンズは、後になっても、カメラの標準レンズとしては提供されなかった。なぜなら通常、写真家にとっては新たに標準レンズを購入する必要はないのである。実際、このタイプで最も遅い時期のシャハト/ミュンヘンのレンズは、34268の番号を持つエキザクタ・マウントのものが知られている。より重要なのは、次に述べる望遠レンズであり、それは、写真家たちの可能性を広げることができたのである。

(訳注)ミュンヘン時代のTravenar 50mm の製品番号は、34..xxxである、と同書85頁にある。となれば、このレンズは268本しか製造されなかったことになる。対して85mmのTravenarは、2500本以上生産されたらしい。

(訳注)2014年末、あるオークションで出品されているのを見た。値段は2000円ほど。当時は、貴重であることを見逃していたのであっさりとスルーしてしまった(標準レンズだったこともある)。シリアル・ナンバーは3418X。マウントは不明。

望遠レンズ(Tele-Objektiv)「Travenar」85mm/f2.8 (4枚3群)
 カメラ側には、クローム鍍金された真鍮のマウント、軽金属で作られた焦点リング、ガイド付回転部、プリセット絞りとばねで動く絞り。マウントはM39、M42。
 最小絞りは32(後に22)、最短撮影距離は1m、重さ202グラム。




(原注69)このシャハトのレンズについて、R. グリットナー(Grittner) (1958:121)は、7枚構成のガウス=タイプとしている。しかしすべての既知の文献は、シャハトの85mmと90mmについてのその見解を否定している。

(訳注)訳者が入手したのは、M39マウントのもの。絞りにはクリック感がある。

望遠レンズ(Tele-Objektiv)「Travenar」135mm/f3.5(4枚4群)
 カメラ側には、クローム鍍金された真鍮製のマウント、軽金属で作られた焦点リング、ガイド付回転部、プリセット絞りとばねで動く絞り。マウントはM39、M42。
 最小絞りは32、最短撮影距離は1.5m、重さ368グラム。

(訳注)訳者が入手した、135mm f3.5のTravenarは、なぜかエキザクタ・マウント。それには、プリセット絞りに相当するものはついていない。製造時期により差があるということか? あるいは、訳がでたらめかのいずれか(たぶん後者。技術用語はよくわからないんです)。

長焦点レンズ(Langbrennweitiges Objektiv)「Albinar」135mm/f4.5(4枚3群)
 カメラ側には、クローム鍍金されたマウント、軽金属で作られた焦点リング、ガイドのない回転部、マウントは、M39、M42、エキザクタ。最小絞り32、最短撮影距離1.5m、274グラム。この張り合わせ式のトリプレットは、「Travenar」135mmの代わりに提供されていた。「Albinar」という名称は、わずかに1953年頃までの数年しか使われなかった。

 1953/1954年頃にAlbinar の後を継いだのは、光学的に同じ値のTravegon 135mm/f4.5だった。

 カメラ側には、クローム鍍された真鍮製のマウント、軽金属で作られた焦点リング、ガイドのない回転部、マウントは、M39、M42、エキザクタ。最小絞り32、最短撮影距離1.5m。





 単純な構造のAlbinar と対照的に、135mm/f4.5のTravegon(後の広角レンズであるTravegonと混同しないこと)は、機械的にはいわゆる「分離可能」なレンズとして開発された。長焦点のテッサー型は、レンズ部分と絞りがレンズの先端部に集まっており、この光学的/機械的なシステムは、いわゆる「レンズの頭部」の取り外しが可能なユニットである。ライカのM39マウントを選択したことで、分離されたレンズ部分はベローズでの接写にも使用できたし、並びに拡大鏡としても使えるものだった。これは概して、生産者にとって非常に経済的であったと同時に、利用者にとっては、潜在的に汎用性の高い構造を持つが故に手ごろな価格であったが、光学的に解放値が暗いという欠点も持っていた。残りの鏡筒を構築することは容易であった。つまり、直進部分を持たないヘリコイド(???)だけで、追加のレンズや絞りが不要であるからである。

(訳注)訳者が手に入れたTravegon 135mm f4.5は、鏡筒の途中に分離できるが見当たらない。小さなネジが三箇所あるが、分解するのが怖すぎる。恐らく、さまざまなヴァリエィションがあったのだろう。

(訳注)一方で、訳者が手に入れたエキザクタ・マウントのTravenar 135mm f3.5 は、鏡筒の途中で分離できる。しかし、分離した先端部分のマウントは通常のM39ではなく、プロジェクションのレンズのような幅の広い溝がきられている。これも謎だ。

 50mmのノーマル・レンズを除き、これらのレンズには、M型ライカのためのM39マウント用のものがあった。ライカ版のレンズのみが、通常のクリック感のある絞りを備えていた。135mm/f4.5のAlbinarとTravegonだけがライカの距離計に対応していたことは、言及に値する。(以下3行、なぜこの日本のレンズがライカの距離計に連動していたかを説明する文章があるが、技術的な単語が多くて、意味がつかめない。すみません。)

※判らない部分の原文を掲載しようとしたら、版元から許可が得られませんでした(クレームを頂戴いたしました)。ご興味のある方は、書籍を入手して頂けますようお願いいたします。

 さて、次なる部分では、munhen/ulm 時代の製品の特長が語られます。

 にしてもですね、色々と話題になっているような(伝聞)、




左から、Em-Travenar 90mm f2.8、Travenar R 90mm f2.8、 travenar 85mm f2.8.

 90㎜(LTM)と85mm(LTM)は、焦点距離が少々違うだけでサイズにはあまり変化はない。ライカの距離計に合わせるためか? 転じてM42の90㎜ f2.8は、どうしても鏡筒が短い。恐らく、工学系にも大きな変化があったのだろう(と)。

 あー、試写の時代に戻りたい。でもね、冬は寒いんですよ。




2014年10月13日月曜日

"Ekakta Mount Alliance are Go!" a.schacht ulm r travegar 105mm f3.5 (circa 1955?)


今回は、a. schacht (アルベルト・シャハト)のベローズ用レンズ、r travegar 105mm f3.5 です。

 このレンズには、奇妙な来歴があって。5年ほど前、「エキザクタ関係のガラクタ」という出品をオークションで見つけ、あまり安くもなかったのですが、出来心で落札。中には、黴臭いガラクタがたくさん。


 jhageeのカメラ、ツァイスのレンズ、このカメラは、惜しかった。


 schacht のレンズとカメラとか。いずれも、当時は興味がなくて、すぐに売ってしまいました。レンズも、汚れていたし。後は、angenieux の28mmとか(山崎レンズさんでのメンテナンスが必要)が入ってました。

 その中に、schacht のベローズ用レンズ、tragegar 105mm f3.5 が、novoflex のベローズに付いた状態で混ざっていたのですが、それは、売れずに手元に残っていました。それで、今回はこの子の出番が来た、というわけです。 

 饕餮は、実はベローズのコレクターでもあり、手元に10台ほど各種揃えていますが、このnovoflex のものは、とても小さく、持ち運びには便利です。ならば、と、愛用のボディバックにカメラ一式と詰め込んで、さあ出撃。


 ベローズ用レンズには、ヘリコイドはついていません。ですから、ベローズか、フォーカシング・ヘリコイドが必須なのです。105mmというのは、大抵のベローズ用レンズで、無限遠が出る最低ラインらしく、この半端な数値にも「なるほど」です。

 しかし、小さいとは言え、ベローズを装着したカメラを外で振り回すのは、ホールディング性に欠けます。


 以前のtravegon と同様の色味なのでしょうか。ちなみに、最近手に入れた、シャハトのレンズに関するデータ・シートによれば、このtravegar は三枚構成だそうです。

 ちなみに、trave- シリーズで一番レンズの枚数が多いのは、35mm f2.8 のs-travegon の7枚のようですが、初期の文献らしく、知られている全部のレンズが記載されているわけではありませんでした。

 さて、このtravegar は、引き伸ばし用レンズとしても販売されていたらしく、このシートには、それ用のレンズとして記載されています。なかなかの高級品だったらしく、数えてみたら、絞り羽根は16枚もありました。すごいね。

追記:大きなモニタで見ると、この色は「ひどい」。正しく、気味が悪い。このtravegar は、三枚構成である。以前にご紹介した travegon 35mm f3.5 は、6枚構成だったが、ここまで過剰ではなかった。また、経験値は低いので確信はないのだが、この色転びが顕著なのは、schneider では、4枚構成のテッサ―型のxenar であるように思う。もう銀塩写真は撮らないので比較はできないのであるが、デジタルの場合、逆にレンズ構成が少ないほうが、極端な描写になるような……気がする。少なくとも、今は。


 それで、作例ですが……。


 行き付けの居酒屋さんです。うん、良い感じ。schacht の色……ですが、105mmともなると、路地裏なので精一杯引いてこの程度です。他の人の敷地に、無断侵入してこのくらい。


 ちょっと表通りに出てみると。いや、ベローズを振り回す人は目立つためか、あんまり居心地がよくありませんね。さっさと退散。


 定点観測では、とてもよろしい。良い色味です。


 絞り込んでも、焦点深度は極めて浅い。




 それで、ベローズを振り回すのにも疲れたので、exakta のヘリコイド・チューブを手に入れました。


 日本製です。恐らくは未使用品。国内では、chiyoluck の名前で売られていたようです。いずれにしても年代ものなので、2本入手して、予想通り、一つはヘリコイドが固着していました。

 しかし……、こけしのような頭が(先端が)重い構成となりますから、ぶれまくり。あるいは、ピントが外れまくり。


 最長で、180cm程度までしか、ピントは来ません。厚みがありますから。


 手持ちなら、上体がわずかに揺れたりしただけで、ぶれてしまいます。


 虫さんにピントを合わせたはずが……。風が吹いただけでこの有様。


 絞り込んでも、深度が浅くて。あ、これは成功の例ですね。


 いや、これはきつい。


 屋外での撮影は、もうあきらめました。


 では、屋内で。三脚を使って、「ふち子」さんを。


 accura のヘリコイドだけだと、この程度。タナカカツキさんのデザインらしいですね。僕は、彼の本はみんな持っています。


 それで、schacht の純正エクステンション・チューブを装着。未使用品のようですが、薄いアルミで柔い感じ。


 今回は、ちょっとしんどかったのは確かですが、なかなか面白い経験をさせてもらいました。楽しかった。

 でも、もう君とはあまり遊ばないかもね!