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2015年3月22日日曜日

S-Travegon 35mm/f2.8 無限遠がでない……! が。



昔ご紹介したパンフレットの裏に、レンズの枚数を記録したものがありましたが、そこでは、S-Travegon 35mm/f2.8が、7枚3群として、最多の枚数を誇っておりました。



p87

1961:より明るい広角レンズ(訳注:シャハトの引退後)
 1961年の初頭から、シャハトは、既存のTravegon 35mm/f3.5 (6枚3群)に続いて、135ミリカメラ向けの、より明るい7枚のレンズからなるS-Travegon 35mm/f2.8 (7枚3群)を追加した。最小絞り22、最短撮影距離0.5メートル、194グラム。

 この、ベルテレによって計算されたトリプレット構造のレンズは、スクリューマウント、あるいはEdixa/Praktica/Pentacon/Exaktaといったバヨネットマウントで利用することができたが、加えてPraktina IIa にも供給された。Praktina用のS-Travegon は明らかに機械的に変更されていたが、なぜなら普通のM42用のこのレンズとは、絞りの回転方向が反対になっているからだ。


とあり、これもベルテレの設計とされていますが、根拠は明示されていません。

翻って、普通の(?)Travegon 35mm/f3.5を見ると、



 少し違いますね。しかし、「枚数の多いことは良いことだ」と信じる饕餮にとって、これは、見逃せないアイテムなのです。甲殻だし(へへへ)。

 ということで、海外の市場を見張ること数日、なんと、その激情のあまり、3本も入手してしまうことになります(ものすごく安いものも、ある程度の値段だったのもありました)。

 さて、試写だ! ということで、α7sに国産のexaktaのアダプタを介してレンズを嵌めてみたら……。無限遠が出ません。

 フーン、と思ってもう一つのexaktaマウントのレンズを嵌めてみたら、これも。

 さて、どうしよう。以前、山崎レンズ様に、10メートルまでしかピントが届かないangeniaux を持ち込んだとき、内部の部品を0.1ミリほど削っていただいて解決したことを記憶していて、これは、マウント・アダプタを0.1ミリくらい薄くすればよいのだな、とは思いましたが……。

 これは単純に、レンズと接するマウント面の金属プレートを外し、プラスティックのボディをやすりで研いだら、とは思うのですが、それよりは、海外製のオーバーインフ気味の製品にするほうが簡単かな、とも思いつつ。しかし、α7sの金属製の爪にははまらない、という噂もあり。

 結局、三晃精機さんのライカLM→ソニーαのアダプタに、なぜか家に転がっていて使い道のなかった極めて短いnovoflexのexakta→LMのアダプタを連結してみましたら、見事に短く(2ミリほど)なって、無限遠がでるようになりました。おめでとうございます。この写真は、家内が持って行ったカメラ撮影用のカメラが戻ってきたら、アップしようと思っています。



 しかし……、その報いとして、0.3メートルまで寄れるはずのレンズなのに、1,5メートル程度しか寄れない! 絞り込んでも無理! というのが現状ですが、それでも良ければ以下にお目にかけます。



 あいにくの曇り、芦花公園は、隠居したら住みたいような閑静な街並み。しかし、ちょっと不便かもしれません。


 錦鯉。


 この日も、曇り空。しかし……。

 個人的には、レンズは、これだけ良く写ったら、もう充分なのですが。


 やはり、快晴の日が好きなのですが。


 おお。無限遠はでますね。


 近場は、やはり不得手なようです。遠景のボケ味は? まあ、こんなものでしょう。


 良い色合いのようです。


 まあまあ?


 schacht の色合い、のような気持ちがします。

Schacht 引退す。




P75

1959/1960 シャハト、引退す。


 大変優秀なスタッフがシャハトの下で働いており、シャハトの製品の品質の高さは良く知られていた。何年にもわたり、注目に値する連帯感が生まれ、120名の従業員は「家族」として受け止められていた。シャハトの部門の上司―あるいは従業員から簡単に「光学屋」と呼ばれたのが、クリスティアン・ウルリヒ(Christian Ullrich)である。


 1959年、ハインツ・ゲルテンボス(Heintz Goertenboth)が、シャハトの製造監督として加わった。ゲッツィンゲンにあるツアイスの子会社である顕微鏡工場からウルムへと派遣され、コンスタンティン・ラウヒに充てた、ドナウの工場への専門的な変革のためのリストを携えていた。ゲルテンボスの報告によれば、シャハトはたびたび、ミュンヘンからオーヴェルエルチンゲンへと製造工程を観察するために赴いている。しかし、彼は決して、製造工程に介入したりはしなかった。しかしながらシャハトは、ウルムで行っていたのと同様、占領下でのクリスマスのような社交の場には出席していた。


 1960年の2月25日、以前のアルベルト・シャハト株式会社は、合資会社へと変更された。その年の暮れ、今や70代になっていたシャハトは、会社から引退した。彼は自分の所有分を、コンスタンティン・ラウヒに寄贈する。シャハトへの部品供給は、すべてラウヒの企業体によって行われ、シャハトという確立されたブランド名は、レンズ製造の最後まで使用された。1960年前後、特にウルリヒが導入した試験的なメソードという大きな背景により、ウルムで製造されたレンズの質はすばらしいレベルに達した。シャハトの製品は、1960年、ケルンのフォトキナ
でひとつのブースを使って展示されたのである。

※シャハトの生年が1890年2月なので、1960年初頭には70歳になっていました。

※これによって、シャハト社の製品開発が途絶えた、ということではなく、これから取り上げる予定のS-Travegon 35mm/f2.8、Travegar 100mm/f3.3、Makro-Travenar 50mm/f2.8、Travenar 35mm/f3.5、などの興味深い製品が開発、販売されています。
※このころから、日本のカメラやレンズの「襲来」が始まって、ドイツの光学産業の行く末には、ちょとした暗雲が立ち込めてきます。
※シャハトの会社が閉鎖されるころの描写を見ると、大変興味深い(日本の定説とは違う)ことや、胸の痛むような部分が頻出します。そこは、少しだけ整理してから……。