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2014年12月6日土曜日

Albert Schacht und Ludwig Bertele 1.1

 軽はずみなお束をしてしまったので、一応ご報告させていただきますが、以下の点で、まだ引用していただく精度には達していません。

・ドイツ語のニュアンスがつかめない。
・外国語脳が戻っていない。
・専門用語がわからない。

 随時、お断りなく訂正を入れさせていただくことになるかと思います。それでもよろしかったら、ご覧下さい。

 誤訳の指摘は、常に大歓迎です。恥ずかしい。

 以下の★が、今回ご紹介する部分です。はあ……。


Vorwort
 Einleitung
 Personalia im Umfeld der Albert Schacht GmbH
   .Albert Schacht (21.01.1890 - 24.08.1984) ★65点(自己採点)
   .Ulmer Schraubenfabrik Fervor/Max Sternweiler et al.
   .Constantin Rauch
   .Ludwig Bertele ★67点(読み直すと、次々に間違いが……)

Relevante Themenfelder zur Optick und Kameratechnik
  .Berechnung von Themenfelder zur Optik und Kameratechnik
  .Auswechselobjektive an Sucher – und Spiegelreflexkameras
  .Technische Realisation eines Auswechselanschlusses
  .Schraubanschluss M39 zur Leica
  .Schraubanschluss M42
  .Exakta-Bajonett
  .Anschluesse bei Schacht-Aufnahmeobjektiven
  .
Ausgewaehlte Beutypen fuer Aufnahme-Objektive in Hinblick auf Shacht-Produkte
  .Optische Charakteristika
  .Blendensteuerung der Schacht-Objektive
  .Zur Produkt-Philosophie bei Schacht

1948/1949: Die Anfanger : Schacht/Muenchen
  .Objektive der fruehen Zeit ab 1949
  .Die ersten Aufnahme-Objektiben(kleinbild)
  .Weitere bauliche Details zu den Schacht Aufnahme-Objektiven

Ab 1954:Schacht/Ulm

1955:wechseloptik am Zentralverschluss
  .Objektive fuer Leidolf-Kameras

1955-1956: Neue Weitwinkel-Konstruktion ★一部抜粋して訳出。持っているレンズなので。

Zur Produktion der Schacht-Objektive in Ulm
1957: Auf dem Weg zu Qualitaetsverbesserungen
1958: Lichtstarke Normalbrennweite und Objektive zur Praktina
1959/1960: Albert Schacht Schedet aus
Weutere Objektive in der Uebersicht
Produktionszahlen/Groessenordningen
Orientierung in Seriennummern
1961: Lichtstaerkeres Weitwinkel-Aufnahmeobjektiv
1962/1963: Aufnahmeobjektive Travegar 100mm und 25mm
1964: Firmennachfolge
1965: Makro-Travenar
1966: Tele-Brennweite mit 200mm
1966: Ihagee Kamerawerk AG/Ekakta real
1967: Travenar 35mm
1968-1969: Geplante Entwicklungen
Diverses
Wietshaftlicher Erfolg
Das Ende
Spaete Nahmensparallelen zu Schacht-Objektiven
Epilog
Anhang
Quellenuebersicht
Glossar
Abbbildungen

*****

p.13

アルベルト・シャハト(21.01.1890 - 24.08.1984)

 19世紀から20世紀にかけ、ドイツには、いくつかのカメラ技術あるいはレンズ工学の大企業が存在していたが、1909年、ベルリン/ドレスデンのヒューティッヒ、フランクフルトのクリューゲナー、ドレスデンのヴュンシェ、そして、イエナのカール·ツァイスが合併して、ICA AGが誕生した。南ドイツの企業であるシュトゥットガルトのネイルとゾントハイムのネッテルは1919年に合併し、コンテッサ=ネッテル=AGシュトゥットガルトとなった。さらには1926年、ICA AGとコンテッサ=ネッテル=AGは統合し、ドレスデンのエルネマンとベルリンのゲルツ光学工場とともに、ドレスデンのツァイス=イコンに合併された。このような変化の激しい写真光学産業に、若いシャハトが身を投じたのは23歳のとき、1913年のことである。それから1919年まで、彼はドレスデンのICA AGにエンジニアとして働いた。その後、1926年から1939年まで、彼はドレスデンのツァイス=イコンに勤務する。1939年、シャハトはテクニカル・ディレクターとして、ミュンヘンにあるシュタインハイルに加わった。シュタインハイルは、真に巨大な光学企業であったが、国家社会主義党の権力掌握にともない、戦時中は軍需工場へと転換した。

 シャハトは、テクニカル・ディレクターとして、戦争の終結までそのシュタインハイルに籍を置いていた。彼はそこで専ら、重要な軍需産業のために勤勉に働いていたのである。国家社会主義党の軍需工場として稼動していたシュタインハイル、そして同様に、そこに属していたシャハトが帝国の財政と関係していたことは、シャハトの評伝が強く非難するところである。しかし彼は、戦争への思想をまったく欠いていたために、従業員と同様の地位に復職した。基本的に彼は、それが独立するための唯一の道と信じていたのだ。「シャハト株式会社」は、1948年の末、光学製品を製造するために設立された。

 どうやらシャハトは、「優れた製造工」であったようであるが、それに比して光学自体についての専門的知識はあまり備えていなかった。それゆえシャハトは、ルトヴィヒ・ベルテレのような専門家に写真用レンズの設計を依頼する必要があった。もちろんシャハトは、特に学界と多くの接触と関係を持っていたので、そこからもビジネスの恩恵を得ることができた。

 経済的な背景においては、ドナウ河畔のウルムから誕生したある会社が主役となっている。それは、コンスタンティン・ラウヒの精密機械工学工場であり、それは以前、ウルムで繁栄していた「USF」(ウルムのネジ工場=Ulmer Schraubenfabrik)が再興したものである。それゆえ、「プロジェクト・シャハト」は、ウルムのコンスタンティン・ラウヒを通じて可能となり、先に進むことができたのであった。

 ※創業したのは、58歳の時。意外に遅咲きであられましたね。
 ※ベルテレの名前が出てきたので、続いての部分はスキップすることにしました。
 ※前半の、第一次大戦後のドイツのレンズ業界再編については、色々と他にも資料があります。
 ※どうやら、本書の眼目の一つには、シャハトとベルテレとの関係があるようです。

*****


同書p.135より、ベルテレの写真とサイン


p.20

ルトヴィヒ・ベルテレ(1900年12月25日―1985年11月16日)

 ベルテレは、1922年から約3年にわたってエルネマン(ドレスデン)で働き、そのエルネマンが合併されたことから、1926年から1941年までツァイス=イコン AGに勤務した。その時代、1930年ころ、ツァイス=イコンでベルテレは、トリプレットをいわゆるゾナーに発展させる。その、1:1.5という口径比の優秀なレンズ・タイプを、彼はたとえばツァイスのレンジファインダー・カメラである「コンタックス」のために実現させたのである。1934年、ベルテレは、ツァイス=イコンのためにビオゴン(Biogon)を開発したが、それは、ガウスタイプの広角レンズであった。続いてベルテレの名前が出るのが、「ベルテレ接眼鏡」として知られるツァイスの双眼鏡のための広角接眼鏡であり、それは、目を離しても見ることができるものであった。この7枚レンズのシステムは、より平坦な視野を達成したのである。

 戦争の最後の3年間、1942年から1945年、ベルテレはミュンヘンのシュタインハイルで働いた。そこでベルテレはシャハトに再会したのだが、両者はドレスデンのツァイス=イコンで知り合っていたのであり、ミュンヘンでの最初の時期、彼らは個人的にも協力関係にあった。シュタインハイルでシャハトは技術的=機械的な分野で働いており、ベルテレは再び、光学の設計を任されていたのである。ベルテレはしかし、敗戦後すぐにシュタインハイルを去り、二度と戻らなかった。1946年2月15日、彼は、ヘールブルッグ(カントン、スイスのザンクト・ガレン州)にあるシュヴァイツァー・フィルマ・ヴィルトとフリーランスの契約を結び、それと平行して、光学システム設計のための個人的な光学オフィスを設立した。そこで彼は、さまざまな顧客のために働いた。ヴィルト/ヘールブルッグにおける彼の最も重要な設計上の成功は、航空写真のための新しい高性能レンズの領域におけるものであり、特に、1948年の「Aviotar」、同様にそれに続くものとして「Aviogon」(1952年)、それに「Super-Aviogon」(1956年)である。これらのレンズは、世界規模の指導的立場にあった写真測量会社が発注したもので、それは、地表の地形と物体の厳密な測定、歪曲の除去のために使用された。彼の光学領域での業績は、ベルテレ本人をして、20世紀前半で最も認められ、最も成功を収めた光学システムの設計者としたのだが、ベルテレの写真レンズの優秀さは、近年の新しいレンズ構造と比較しても際立ったものである。その特別さは、21世紀初頭の現代のデジタル写真にとっても重要なものだ。それゆえ、2003年、オーバーコッヘンのカール・ツァイス財団の刊行物は次のように述べている。

「Alpa社のトーマス・ウェーバー=カパウルは、ビオゴン・レンズを>世界最高の広角レンズ<であろうと評し、その他のすべての競争相手を置き去りにした、としている。50年代前半、ベルテレ博士が開発した光学形式に基づくレンズ、たとえばビオゴンは、その最高のシャープネス、色収差からの解放という点で、競合する、より新しいアポクロマートやデジタルのレンズを凌駕している。」
カール・ツァイス(2003:3)

 ※ベルテレに関しては、wikipediaその他でたくさん資料があります。そちらのほうが詳しい。
 ※一瞬、当時のbiogonを買いそうになりましたが、ぐっとこらえて。contax G の28mmで我慢しましょう。

*****

同書p.57より、travegon 35mm f3.5 の構成図


p.57

1955-1956:新しい広角の構造(抜粋)

 小型カメラ用のシャハトの製品ラインナップには、それまで標準レンズと望遠レンズとが揃えられていたが、1956年ころ、ベルテレによって設計された広角レンズが小型カメラの生産計画のために追加された。

 Travegon f3.5/35mm(6枚3群) Exakta/M42マウント。絞り値3.5から16、最短撮影距離0.5メートル、重さ204グラム。
 トリプレット構造をとり、ツァイス=イコンのゾナーに類似しているが、それは同じく、ベルテレによって設計されたものである。この新しいシャハトのレンズについては、以下のように言及されている。

「更に注目に値する新製品として、シャハト株式会社は、数年間の開発作業の末、解放値3.5、焦点距離35mmの広角レンズを発表した。それは6枚3群のレンズ構成で、最も贅沢な写真家の必要とする条件を満たすことができるものである。」(Foto-Almanach 1956:189)


 ※所有していてテストしたレンズを探して読んでみると、またベルテレが出てきたのでびっくり。
 ※ベルテレが設計した、というエビデンスは、このページには示されていないようですが……。
 ※クローム鏡胴で前面に黒いリングがついたプリセット絞りのものを「Ulm/Typ I」としていますが、これは、僕の所有するものと同一みたいですね。
 ※当時の広角レンズとしては、明るかったようです。
 ※このレンズは、6枚3群構造ですが、3群ということで、著者はトリプレットに分類しています。最初のころの製品は、この3群構造のものが多いようで、以前の無謀な仮説がまたよみがえってきます。
 ※travegon に限らず、ドイツ語の発音として、トラフェゴン、トラフェナーなどを使っている方もいらっしゃいますが、アルファベットでごまかします。
 ※サンハン、サンハンと言えば……。ズマロンみたいですね。
 ※そうそう、7枚3群構成の、s-travegon 35mm/f2.8は、今、こちらに向かって空輸中(ひとつは、船便?)。
 ※ミュンヘン時代のschachtは、高いのです。



2014年12月1日月曜日

Schacht が独立するまで。

 と、読み始めたは良いのですが、悪い癖で、意訳ができません。逐語訳になってしまいます。翻訳で師事したかたには、「一言なりとも省くな。一言なりとも付け加えるな」と教わりました。とすると、一行、あるいは一言でもわからない部分があると、そこで停止。

 今現在は、シャハトが独立するまでの部分ですが、2行ほど???があります。それは、週明けに片付けるつもりですが、もう少しお待ちください。誰も待っていない? それが、良いのです!

 図版も、たくさん。取り敢えず、シャハトさんの写真とか。

Albert Schacht (1890年1月21日―1984年8月24日)※同書135Pより




 以下は、全体の章立てです。

Vorwort
Einleitung
Personalia im Umfeld der Albert Schacht GmbH
  .Albert Schacht (21.01.1890 - 24.08.1984) ★今はここが大体終わり。
  .Ulmer Schraubenfabrik Fervor/Max Sternweiler et al.
  .Constantin Rauch
  .Ludwig Bertele

Relevante Themenfelder zur Optick und Kameratechnik
Ausgewaehlte Beutypen fuer Aufnahme-Objektive in Hinblick auf Shacht-Produkte
1948/1949: Die Anfanger : Schacht/Muenchen
Ab 1954:Schacht/Ulm
1955:wechseloptik am Zentralverschluss
1955-1956: Neue Weitwinkel-Konstruktion
Zur Produktion der Schacht-Objektive in Ulm
1957: Auf dem Weg zu Qualitaetsverbesserungen
1958: Lichtstarke Normalbrennweite und Objektive zur Praktina
1959/1960: Albert Schacht Schedet aus
Weutere Objektive in der Uebersicht
Produktionszahlen/Groessenordningen
Orientierung in Seriennummern
1961: Lichtstaerkeres Weitwinkel-Aufnahmeobjektiv
1962/1963: Aufnahmeobjektive Travegar 100mm und 25mm
1964: Firmennachfolge
1965: Makro-Travenar
1966: Tele-Brennweite mit 200mm
1966: Ihagee Kamerawerk AG/Ekakta real
1967: Travenar 35mm
1968-1969: Geplante Entwicklungen
Diverses
Wietshaftlicher Erfolg
Das Ende
Spaete Nahmensparallelen zu Schacht-Objektiven
Epilog
Anhang
Quellenuebersicht
Glossar
Abbbildungen

 う。途中でスキップしたい部分もありますね。しかし……。

 始めてしまったからには、仕方ありません。





2014年11月27日木曜日

【永遠に】Albert Schacht / Photo-Objektive aus Ulm a. d. Donau / ein Beitrag zur neueren Ulmer Stadt - und Techinikgeshichte 【未完?】書きかけその一

 


 饕餮は、以前、翻訳が本業の時代もありました(報酬は……なし)。割合きつい遊びでもあったので、もうあんな経験はしたくない……と思っていましたが、今回、 読むべき本を見つけて、久しぶりに血がたぎったわけです。むらむら。

 以前は、一種の現代思想の本だったのですが、今回は? 

 玩物喪志の極みかともいえる、物についての本です。ペーター・ガイスラーの、アルベルト・シャハトについての文献です。

 ドイツ語に夢中だったのはもう25年も前、今回再挑戦してみて、いや、これは僕も鈍ったな、と感じること頻りでしたが、面白いものは面白い。今日は一日(正確には半日未満)、おかげで楽しく過ごさせていただきました。

 タイトルは、うー、少し日本語化が難しいところもあるのですが、仮に、『アルベルト・シャハト/ドナウ河畔の都市ウルムから生み出された写真用レンズ/新生ウルム市への貢献、そしてその技術史』でいかがでしょう。

 半分ほど斜め読みして、さび付いているドイツ語ですから、危ういところは多々あります。それで、まあ年寄りの道楽として、ちゃんと読んでみよう、と思った次第です。

 そういえば、この手の本は、あまり日本では見ないですね???

 というわけで、明日から(きっと)、小難しい語学との苦闘が始まるのかも知れません。

 では、このエントリーは、当分続きます。

2014年11月3日月曜日

contarex distagon 35m f4 (circa 1958-1964) 実写編 その一


 実は、饕餮は以前、ツァイスの信奉者でありました。理由は、仕事でも使えるから。ここ一番の時にも、レンズに由来する失敗がないから。

 ですから、最初は、c/y contax をコンプリートしよう! などと考えて、記念モデル以外は一応制覇し(コレクターなので)、そこで満足しておりました。もちろん、撮影に使うなどという愚かなことはしておりません(数寄者なので)。

 先日、国内のオークションで、contax 18mm 等という出物を見て、昔の血が騒ぎました。ああ、これはもう買わないと、と思った次の瞬間、「いや待て、持っているのでは?」と気づいて、チェックすると既に所有。馬鹿ですね。

 そんなこともあり、しばらくは c/y contax でも取り上げようかと思った矢先、そのレンズをマウント・アダプターに嵌めたら、外れなくなり、あえなく入院、となりました(こちらのミスです)。

 仕方ないので、もう標準レンズには飽きたし、schacht にも食傷気味(本まで買ったのに)、schneider-kreuznach はしばらくは敬して遠ざけたい、という感じで、リクエストも多い、contarex distagon 35mm f4 です。

 とはいえ、饕餮はロケハンには絶対に出ません。旅に行けば、その地を撮る、というだけのことで、今回も、自宅の周囲、あるいは職場の敷地内をうろうろするだけです。

クラシック・カメラ専科 No.43 P108 より、レンズ構成図

 構成図を見ても、饕餮には何もわかりません。同時期にみた、contax の構成図に比べると、とても単純、としか。教えて、だれか詳しい人(笑)! 


 先日、A.W.B.のことを考えていたのですが、普通は、デフォルトの設定で良いか、と。しかしこの作例は、イメージ・サークル中央の赤い木の実の色を撮りたかったので、測光範囲はピン・スポットにしてあります。


 青葉茂っていたころには、わからなかった造形があるのですね。


 朝日はいいなあ。


 逆光の落ち葉。雨上がり。


 太陽の方向を向いています。


 夏の名残、みたいな花。


 先日、植え替えられた植栽。まだ根付いておりません。


この銀鏡胴の個体は、25cm位までは寄れます。


 しめchang。なんだか、馬鹿面(失敬)。


 お隣の、いつも気になる植物。白っぽいんです。


 近所のホーム・センターへお散歩(犬の。僕は付き添いです)。野川の流れを順光で。春は、桜の名所であります。

 ああ、これが僕が求めていた写り……(?)。これは、言葉にはできません。

 ワインの評論家の言葉遊び、あるいは美術館の凡庸な学芸員の印象批評、そんなものは、塵芥に等しい。批評には、批判が含意されていなくてはならないことが、なぜわからないのでしょうか。

 ですから、ここにおいては、ただ、「物をして語らしめよ」で十分でしょう。はは、また嫌われてしまいますね。


 路傍に小花あり。


 もう、お正月のお飾りですか? 


 透明な、若葉なんです。






 昔、贔屓にしていた中華のお店。


 昔通っていた、居酒屋。


 曇天下の水路。もう、子供たちの姿もなく。


 こ、これは……! すごいなあ。すごすぎます。色が、目に刺さる。


 ツァイスは、良いなあ。「最強の35㎜は、contarexのそれである」という言葉もよく目にしますが、世界中の35ミリを制覇したわけではないので、比較はできません。

 しかし、うん、このレンズは好きです。透明感の中に、色がはっきりと自己主張しているような印象もあります。

 重いのが玉に瑕、ですけど。





2014年11月1日土曜日

schneider-kreuznach xenar 50mm f2.8 と、auto white balance の問題。




 忙中閑ありで、イベントの最中にボーとしていたら、ふと、昔のことが思い起こされました。

 饕餮は、昔々、大抵は写場で撮影をしていましたが、その頃、エクタクロームのタングステン(tungsten=白熱電球)のフィルムが主で、会場で撮影するときも、光が白熱灯がメインでしかたら、そのままのフィルムで出かけていました。一転、外光で撮影するとき、あるいは青く塗ったレフランプでスタジオ撮影するときは、day light のフィルムを詰めて出かけていたのです。

 それで、恐らく10年くらい前に、nikon のD70を購入したとき、敬愛する故Tさんと同じタイミングで買ったのですが、二人で、子供でも撮れる高級カメラだなあ、なんて笑っていたのが思い出されます。

 しかし。そのころから、写真はカメラ任せになったようです。A.W.B.に頼り、オート・フォーカスに任せ、考えることがなくなった。でも、それでよかったでしょうか? 現代のデジカメにも、色々と工夫できる部分があるのでは?

 そう思いついて、ふと前を見ると、前日ビデオ撮影に使った、頑丈なジッツォがある。それで横を見ると、半ば干上がった池、という格好の被写体もある。この時間は、僕にはあまりやるべきことがない……。

 ということで、窓ガラス越しに、カラー・バランスの設定を変えて外を撮影してみました。上から、A.W.B.、day light、日蔭、曇り、tungstenの順です。




友よ、これがschneider blue だ(嘘)

 うーん……。目で見た感じに一番近いのは、day light でしょうか。また、青に転ぶ感じがあるのは、A.W.B.でしょうか。

 事前の予想では、昔のように、day light に設定したほうが、素直にレンズの特徴が出るのでは、と思っていたのですが、A.W.B.が、「言われている」schneider の「特徴」に近いのでは?

 しかし、ちょっと待ちたい。「レンズの言われている特徴」とは、なんだろう? schneider の場合、ときには schneider blue ともいわれる、青みがかった色合い、という論が流布しているが、本当にそうなのだろうか? 他の方々が言っているレンズの特徴を再現するために、そのレンズを購うのは、実は少々、安易な行為なのではないのか(自戒を込めつつ)?

 もちろん、慎重な方は、銀塩カメラで、フィルムの種類も変えて撮影し、それを分析することで、(銀塩時代の)レンズの特徴を言い表しているのだが。そして、デジタルでも、その傾向が読み取れたら、それがレンズの特徴と言ってもよいのであろう。

 A.W.B.は、僕にとって、一つのブラック・ボックスである。メーカー別に、色合いが異なる。先日も、某放送局の人から、「これはソニーの絵だね」と一言で言い当てられてしまった。だから、上の写真だけでは何とも言えない。

 では、今度は角度を変えて。順番は、上のシリーズと一緒です。






 う……。結果は同じか。

 純粋に文系の人間の勝手な推測ですが、デジタル・カメラのA.W.B.の場合、レンズを通った光をカメラが判断し、上の作例のように、「これはday light」、「これは tungsten」、というように大まかな区分けをせず、もっと微妙な段階で補正しているのではないか、と思う。しかも、この作例は、マルチ測光で撮影したものであり、もしかしたら部分部分で、カラー・バランスを変えているのでは? しかし、だとしたら、レンズの「雑味」は補正され、特徴が消されて然るべきなのでは?

 でも、銀塩写真でも、A.W.B.使用時と同様、あるいは(大抵は)もっと強烈にレンズの個性が出てくる、というのはなぜだろう(独白)。それは、銀塩の場合、レンズの硝材、コーティングがストレートに反映されるのであろうが、ではなぜ、A.W.B.は、銀塩の場合と似た色合いが再現されるのか。

 わからない。もしかしたら、A.W.B.には、非常に高度なアルゴリズム等が組み込まれているとか?

 そんな状態ですが、饕餮は実は頑固なので、その翌日、晴天の状態で、day light、加えてスポット測光で、近所を歩いてみました。人の言うレンズの特徴を探すよりも、実際に目で見た光景に一番近い状態を追及することにも意味がある、と思ったからです。












 ふむ。これはこれでよいのでは?

 驚いたのは、テッサ―タイプの描写力です。テッサ―系のレンズは、何本か持っていますが、使ったのは初めてです。切れが良い、かっちりした描写に、大変驚きました。

 A.W.B.の問題はともかく、いつかまた連れて歩きたいレンズです。