・ドイツ語のニュアンスがつかめない。
・外国語脳が戻っていない。
・専門用語がわからない。
随時、お断りなく訂正を入れさせていただくことになるかと思います。それでもよろしかったら、ご覧下さい。
誤訳の指摘は、常に大歓迎です。恥ずかしい。
以下の★が、今回ご紹介する部分です。はあ……。
Vorwort
Einleitung
Personalia im Umfeld der Albert Schacht GmbH
.Albert Schacht (21.01.1890 - 24.08.1984) ★65点(自己採点)
.Ulmer Schraubenfabrik Fervor/Max Sternweiler et al.
.Constantin Rauch
.Ludwig Bertele ★67点(読み直すと、次々に間違いが……)
Relevante Themenfelder zur Optick und Kameratechnik
.Berechnung von Themenfelder zur Optik und Kameratechnik
.Auswechselobjektive an Sucher – und Spiegelreflexkameras
.Technische Realisation eines Auswechselanschlusses
.Schraubanschluss M39 zur Leica
.Schraubanschluss M42
.Exakta-Bajonett
.Anschluesse bei Schacht-Aufnahmeobjektiven
.
Ausgewaehlte Beutypen fuer Aufnahme-Objektive in Hinblick auf Shacht-Produkte
.Optische Charakteristika
.Blendensteuerung der Schacht-Objektive
.Zur Produkt-Philosophie bei Schacht
1948/1949: Die Anfanger : Schacht/Muenchen
.Objektive der fruehen Zeit ab 1949
.Die ersten Aufnahme-Objektiben(kleinbild)
.Weitere bauliche Details zu den Schacht Aufnahme-Objektiven
Ab 1954:Schacht/Ulm
1955:wechseloptik am Zentralverschluss
.Objektive fuer Leidolf-Kameras
1955-1956: Neue Weitwinkel-Konstruktion ★一部抜粋して訳出。持っているレンズなので。
Zur Produktion der Schacht-Objektive in Ulm
1957: Auf dem Weg zu Qualitaetsverbesserungen
1958: Lichtstarke Normalbrennweite und Objektive zur Praktina
1959/1960: Albert Schacht Schedet aus
Weutere Objektive in der Uebersicht
Produktionszahlen/Groessenordningen
Orientierung in Seriennummern
1961: Lichtstaerkeres Weitwinkel-Aufnahmeobjektiv
1962/1963: Aufnahmeobjektive Travegar 100mm und 25mm
1964: Firmennachfolge
1965: Makro-Travenar
1966: Tele-Brennweite mit 200mm
1966: Ihagee Kamerawerk AG/Ekakta real
1967: Travenar 35mm
1968-1969: Geplante Entwicklungen
Diverses
Wietshaftlicher Erfolg
Das Ende
Spaete Nahmensparallelen zu Schacht-Objektiven
Epilog
Anhang
Quellenuebersicht
Glossar
Abbbildungen
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p.13
アルベルト・シャハト(21.01.1890 - 24.08.1984)
19世紀から20世紀にかけ、ドイツには、いくつかのカメラ技術あるいはレンズ工学の大企業が存在していたが、1909年、ベルリン/ドレスデンのヒューティッヒ、フランクフルトのクリューゲナー、ドレスデンのヴュンシェ、そして、イエナのカール·ツァイスが合併して、ICA AGが誕生した。南ドイツの企業であるシュトゥットガルトのネイルとゾントハイムのネッテルは1919年に合併し、コンテッサ=ネッテル=AGシュトゥットガルトとなった。さらには1926年、ICA AGとコンテッサ=ネッテル=AGは統合し、ドレスデンのエルネマンとベルリンのゲルツ光学工場とともに、ドレスデンのツァイス=イコンに合併された。このような変化の激しい写真光学産業に、若いシャハトが身を投じたのは23歳のとき、1913年のことである。それから1919年まで、彼はドレスデンのICA AGにエンジニアとして働いた。その後、1926年から1939年まで、彼はドレスデンのツァイス=イコンに勤務する。1939年、シャハトはテクニカル・ディレクターとして、ミュンヘンにあるシュタインハイルに加わった。シュタインハイルは、真に巨大な光学企業であったが、国家社会主義党の権力掌握にともない、戦時中は軍需工場へと転換した。
シャハトは、テクニカル・ディレクターとして、戦争の終結までそのシュタインハイルに籍を置いていた。彼はそこで専ら、重要な軍需産業のために勤勉に働いていたのである。国家社会主義党の軍需工場として稼動していたシュタインハイル、そして同様に、そこに属していたシャハトが帝国の財政と関係していたことは、シャハトの評伝が強く非難するところである。しかし彼は、戦争への思想をまったく欠いていたために、従業員と同様の地位に復職した。基本的に彼は、それが独立するための唯一の道と信じていたのだ。「シャハト株式会社」は、1948年の末、光学製品を製造するために設立された。
どうやらシャハトは、「優れた製造工」であったようであるが、それに比して光学自体についての専門的知識はあまり備えていなかった。それゆえシャハトは、ルトヴィヒ・ベルテレのような専門家に写真用レンズの設計を依頼する必要があった。もちろんシャハトは、特に学界と多くの接触と関係を持っていたので、そこからもビジネスの恩恵を得ることができた。
経済的な背景においては、ドナウ河畔のウルムから誕生したある会社が主役となっている。それは、コンスタンティン・ラウヒの精密機械工学工場であり、それは以前、ウルムで繁栄していた「USF」(ウルムのネジ工場=Ulmer Schraubenfabrik)が再興したものである。それゆえ、「プロジェクト・シャハト」は、ウルムのコンスタンティン・ラウヒを通じて可能となり、先に進むことができたのであった。
※創業したのは、58歳の時。意外に遅咲きであられましたね。
※ベルテレの名前が出てきたので、続いての部分はスキップすることにしました。
※前半の、第一次大戦後のドイツのレンズ業界再編については、色々と他にも資料があります。
※どうやら、本書の眼目の一つには、シャハトとベルテレとの関係があるようです。
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同書p.135より、ベルテレの写真とサイン
p.20
ルトヴィヒ・ベルテレ(1900年12月25日―1985年11月16日)
ベルテレは、1922年から約3年にわたってエルネマン(ドレスデン)で働き、そのエルネマンが合併されたことから、1926年から1941年までツァイス=イコン AGに勤務した。その時代、1930年ころ、ツァイス=イコンでベルテレは、トリプレットをいわゆるゾナーに発展させる。その、1:1.5という口径比の優秀なレンズ・タイプを、彼はたとえばツァイスのレンジファインダー・カメラである「コンタックス」のために実現させたのである。1934年、ベルテレは、ツァイス=イコンのためにビオゴン(Biogon)を開発したが、それは、ガウスタイプの広角レンズであった。続いてベルテレの名前が出るのが、「ベルテレ接眼鏡」として知られるツァイスの双眼鏡のための広角接眼鏡であり、それは、目を離しても見ることができるものであった。この7枚レンズのシステムは、より平坦な視野を達成したのである。
戦争の最後の3年間、1942年から1945年、ベルテレはミュンヘンのシュタインハイルで働いた。そこでベルテレはシャハトに再会したのだが、両者はドレスデンのツァイス=イコンで知り合っていたのであり、ミュンヘンでの最初の時期、彼らは個人的にも協力関係にあった。シュタインハイルでシャハトは技術的=機械的な分野で働いており、ベルテレは再び、光学の設計を任されていたのである。ベルテレはしかし、敗戦後すぐにシュタインハイルを去り、二度と戻らなかった。1946年2月15日、彼は、ヘールブルッグ(カントン、スイスのザンクト・ガレン州)にあるシュヴァイツァー・フィルマ・ヴィルトとフリーランスの契約を結び、それと平行して、光学システム設計のための個人的な光学オフィスを設立した。そこで彼は、さまざまな顧客のために働いた。ヴィルト/ヘールブルッグにおける彼の最も重要な設計上の成功は、航空写真のための新しい高性能レンズの領域におけるものであり、特に、1948年の「Aviotar」、同様にそれに続くものとして「Aviogon」(1952年)、それに「Super-Aviogon」(1956年)である。これらのレンズは、世界規模の指導的立場にあった写真測量会社が発注したもので、それは、地表の地形と物体の厳密な測定、歪曲の除去のために使用された。彼の光学領域での業績は、ベルテレ本人をして、20世紀前半で最も認められ、最も成功を収めた光学システムの設計者としたのだが、ベルテレの写真レンズの優秀さは、近年の新しいレンズ構造と比較しても際立ったものである。その特別さは、21世紀初頭の現代のデジタル写真にとっても重要なものだ。それゆえ、2003年、オーバーコッヘンのカール・ツァイス財団の刊行物は次のように述べている。
「Alpa社のトーマス・ウェーバー=カパウルは、ビオゴン・レンズを>世界最高の広角レンズ<であろうと評し、その他のすべての競争相手を置き去りにした、としている。50年代前半、ベルテレ博士が開発した光学形式に基づくレンズ、たとえばビオゴンは、その最高のシャープネス、色収差からの解放という点で、競合する、より新しいアポクロマートやデジタルのレンズを凌駕している。」
カール・ツァイス(2003:3)
※ベルテレに関しては、wikipediaその他でたくさん資料があります。そちらのほうが詳しい。
※一瞬、当時のbiogonを買いそうになりましたが、ぐっとこらえて。contax G の28mmで我慢しましょう。
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同書p.57より、travegon 35mm f3.5 の構成図
p.57
1955-1956:新しい広角の構造(抜粋)
小型カメラ用のシャハトの製品ラインナップには、それまで標準レンズと望遠レンズとが揃えられていたが、1956年ころ、ベルテレによって設計された広角レンズが小型カメラの生産計画のために追加された。
Travegon f3.5/35mm(6枚3群) Exakta/M42マウント。絞り値3.5から16、最短撮影距離0.5メートル、重さ204グラム。
トリプレット構造をとり、ツァイス=イコンのゾナーに類似しているが、それは同じく、ベルテレによって設計されたものである。この新しいシャハトのレンズについては、以下のように言及されている。
「更に注目に値する新製品として、シャハト株式会社は、数年間の開発作業の末、解放値3.5、焦点距離35mmの広角レンズを発表した。それは6枚3群のレンズ構成で、最も贅沢な写真家の必要とする条件を満たすことができるものである。」(Foto-Almanach 1956:189)
※所有していてテストしたレンズを探して読んでみると、またベルテレが出てきたのでびっくり。
※ベルテレが設計した、というエビデンスは、このページには示されていないようですが……。
※クローム鏡胴で前面に黒いリングがついたプリセット絞りのものを「Ulm/Typ I」としていますが、これは、僕の所有するものと同一みたいですね。
※当時の広角レンズとしては、明るかったようです。
※このレンズは、6枚3群構造ですが、3群ということで、著者はトリプレットに分類しています。最初のころの製品は、この3群構造のものが多いようで、以前の無謀な仮説がまたよみがえってきます。
※travegon に限らず、ドイツ語の発音として、トラフェゴン、トラフェナーなどを使っている方もいらっしゃいますが、アルファベットでごまかします。
※サンハン、サンハンと言えば……。ズマロンみたいですね。
※そうそう、7枚3群構成の、s-travegon 35mm/f2.8は、今、こちらに向かって空輸中(ひとつは、船便?)。
※ミュンヘン時代のschachtは、高いのです。