Translate

2019年10月16日水曜日

シャハト社の終焉

シャハト社の終焉 日本製のカメラやレンズの発展とその流入に加え、ドイツ写真産業の経営構造自体が経済的困難に置かれており、それは、コンスタンティン・ラウヒの企業体の内部でも起こっていた。それは、工学分野の恒久的な将来の発展を困難にするものだった。グロッケラウ金属工場(MGO)は、今や注文生産、ハイドロマティック(変速機)、そしてシャハト社という三つの中核的な分野に部品を供給していた。それゆえシャハト社には、MGOでシャハト社を受け持つ一部を、その傘下に収める必要が生じた。MGOは、シャハト社の専門性を高く評価しており、レンズの適切な価格はシャハト社が決めることになった。しかし、のような状況の大きな要因は、ラウヒの企業体の中で光学事業が占める割合が非常に少なくなり、それゆえ技術的に遅れることになった点にある。ベルテレが設計したような、より複雑なレンズを設計できるようなコンピュータは、まだ存在しなかったのである。基本的に、シャハト社のように技術的な選択肢を持たない停滞した光学産業は、カメラ市場のあらゆる局面で、致命的な欠点を備えることであった。

 1968年、多くの光学系の従業員は解雇された。クリスティアン・ウルリヒは、一眼レフカメラのためのレンズから手を引き、規格が一様な映画上映用のレンズのみに集中することを主張した。なぜなら、それはレンズの枚数が少なくて済み、複雑な機構も不要なことから、実際のコストを削減することができるからである。また、上映用レンズの市場においては著しく重要な、個数を期待できたからでもある。いずれにせよ、光学分野は遅かれ早かれ、閉鎖されることは明らかだった。

 しかしながら、明らかにある意味でラウヒの企業体自体が限界に達していた。彼の企業体の中核である自動変速機は、長い目で見ると、競争力を維持するためにはより大きな投資を必要としていた。結局のところ、国内外での自動変速機部門への旺盛な需要は、高い生産能力を彼に要求していたのである。しかし、それはウルムには存在しなかった。自動変則装置の部門は、基本的には一日24時間操業していたのだが、ラウヒの一族は、更なる投資のための資金を欠いていた。典型的な中規模の会社であれば倒産していたのだろうが、そのようなことは無視して、彼はできれば「世界規模」のプレーヤーとなりたかったのである。しかし、1968年から69年頃にかけて、ラウヒの一部の企業は、徐々に大企業であるレックスロッドとマンネスマンの傘下に入り、最終的には、1971年、マンネスマンとボッシュに吸収された。1970年から74年にかけて、コンスタンティン・ラウヒの所在はまだウルムのアドレス帳に掲載されてはいたがードナウ渓谷のリストシュトラーセ3番地―しかし、他の「ヒドラウリックス企業集団」と「精密エンジニアリング企業集団」は大きく再編され、新しい経営者を迎えて消滅した。

 このような変化と成り行きは、もちろん、アルベルト・シャハト合資会社の将来的な売却という無残な結果を予見させるものだった。クリスティアン・ウルリヒが報告しているように、マンネスマンは買収はしたものの、会社の仕事を委託することによって自らの企業イメージが低下することは許容できなかった。この局面において、クリスティアン・ウルリヒが米国から帰国したのだが、そこで彼は、コンピュータと接続するためのセントロニクス社の、鋳型(?)の設計図用のプリンタを持ち帰った。このノウハウのために必要とされた精密機器は、シャハト社にとって疑いもなくプレゼントだった。もちろんそれは使用されねばならなかったが、しかし、事前の準備、そしてほとんど不眠不休の努力とが、この新しい機材を構築するために必要だった。スタートさせるために、ニックスドルフによって専門家がリクルートされた。この操作部門を構築するにあたり、シャハトのチームはほとんど他の仕事を見つけておらなかったこともあり、この鋳型の設計図を印刷する従業員となった。 フリッツ・ラウヒは、父親の遺産をあきらめることができず、その50%にこだわった。これには時間の制限があったにせよ、新しい共同経営者の継続的な投資が、フリッツ・ラウヒを迎えることを不可能とした。彼は、それを売却することを余儀なくされた。

 コンスタンティン・ラウヒは、その生涯にわたり、ガラスは他のものと同様な物質であり、それゆえ、商業的にはその外見がぼろきれのようであってはならないと考えていた。シャハト社を継いだ企業は、これについては理解していたが、それを継承することには興味はなかった。実際の製造は、ナルボルン=ウェッツラーにあったヴィルヘルム・ヴィル社という光学企業のレンズ部門が担った。このような結果について、ウルムにあった「南西新聞」は、1969年10月22日の記事で次のように書いている。

「ラウヒ、その製品を調整する。 ノイ=ウルムにあるコンスタンティン・ラウヒの合資会社は、将来的に自動変速装置と精密機械に集約されることになった。これは昨日、営業部門が明らかにしたものだ。つまり、シャハト社の製造部門はナルボルンのウェッツラーにあるヴィルヘルム・ヴィルの光学部門に売却されるということである。自動変速装置のうち、熱を使わない部門は、ユーゴスラヴィアの会社に売られる。

 しかし、ナルボルンのウェッツラーにあったヴィルは、この申し出を完全には履行しなかった。1970年になり、映画上映用のレンズのためのシャハトの製造ラインをすべて引き受けたが、それは小さなフィルム(8ミリ、スーパー8、そして16ミリのフォーマット)のためのレンズには、ドイツ製品が比較的堅調な需要を持っていたからである。それゆえ、ヴィルはVario-Travenon は作り続けたが、その外見は、比較的技術を必要としない射出プラスティックに徐々に変更されたヴィル社のTravenonは、数種類製造された。

 たとえば8ミリの映写機用の投影レンズは、ローライ、バウアー、ポルストその他に使用された。H. Thieleによれば、ヴィルは、―特に指定されてはいないがーそれを未だに市場に出していた。「市場の反応を見るために、1978年、シャハトのレンズはフォトキナでアナウンスされたが、製品自体はそれには含まれなかった

 1981年、ヴィル自体がライツに吸収された。今や、シャハト社の以前の競合者たちのレンズ設計が、シャハト社にとって代わったと推測するのが安全であろう。なぜなら、シャハト社のような会社が、以前の競合者たちの発展に追いつくことは難しいからである。シャハト社のレンズのためのサービス、修理の保証は、ヴィースバーデンのオットー・ヘルフリヒトの機械工場の光学部門が請け負うこととなった。

(一部省略した個所があります)