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2015年1月26日月曜日

A. Schacht Munchen 1.0

ぞわぞわと増殖しつつあるschacht のレンズたち。うち、ミュンヘンはまだ3本。
もう一つは、いま旅行中。右端は、Wirgin社のedixa16。スパイカメラ、なんていわれていました。Travegar 25mm f2.8です。フラッシュは省かれていますが、スパイがフラッシュを炊くのか?
レンズ名に、Edixa-と付くのは、Wirgin社のカメラ用のレンズなのでしょうか。

1948/1949 その始まり:Schacht Muenchen


現存する資料によれば、アルベルト・シャハト社は1948年12月14日、ミュンヘンで株式会社として設立され、商業登記所への登録は1949年7月21日に行われた。しかし、既にこの会社の初期段階において、この会社の実際の所在地に関していくつかの混乱が生じていたのだが、それは、メミンゲン(訳注:ウルムの50キロ南)の地方裁判所の問い合わせが、アウグスブルグの商工会に送られていたことが示している。それは、1949年7月21日、設立から半年過ぎたころの、>ノイ・ウルムにある企業、アルベルト・シャハト株式会社<という件名のものである。

>>ミュンヘンのロトブッヘン通り75番の工場長アルベルト・シャハトは、この会社のディレクターとして、商業登記簿への登録を申請した。この会社は、主に光学機を製造している。同社の事務所は、ノイウルムのホルツ通り9番にあると申告されている。この申告に対して、意見を求める。<<

(訳注)以下、暫定的に省略。概略を記すと、登記された住所が混乱していたこと、最初期は機械部品、旋盤製品などのつつましい生産から始まったこと、その資本金、アメリカからの輸入原材料等々、あまり興味が持てなかったのでスキップしてしまいました(後で読み返しますかも)。

(訳注)ノイ・ウルムという地名は、随所に登場する。未だ地図を参照したわけではないが、シャハトの実際の工場は、ノイ・ウルムにあったのでは、という推論も成り立つ。都市ウルムが蒙った戦火のことを考えると、当然のように思われたりするのだが、まだ未調査です。


★1949年に続く数年間のレンズ (訳注)1954年にウルムへ移転するまで

 驚くべきことに、ヴァルター・ヘーリンク(Walther Heering)が1953年に発表した『フォト=マガティン(Photo-Magazin)』のような非常に重要な専門誌には、シャハト/ミュンヘンの製品はリストされておらず、その他の言及も見い出せない。『写真の天空における新しい星々(Neue Sterne am Photo-Himmel)』―このキャッチフレーズで、1952年から1953年にかけて、シャハトは恐らく初めて、彼の製品に注目を集めようとしていたのであるが。

 35ミリカメラのための交換レンズが主に生産されていた。それらにはまず、大別すると二つの異なったマウントがあるのだが、すなわち、当時供給されていた35ミリ判の一眼レフ向けのものと、同様に当時のライカのレンジファインダーのためのM39マウントのものである。

 これは確かに大胆な戦略であった。なぜなら、戦後においても、アマチュア写真家の大部分が、価格的に有利な、装飾の施された箱型カメラ、あるいは大抵は固定レンズを搭載したレンジファインダー方式のカメラを使用していたのである。レンジファインダー・カメラは、1950年ころからますます、ユーザーの要求に応じるためにレンズ交換式が数を増やした。最も普遍的なカメラである一眼レフカメラは、戦後の大抵の人々には手の届かないものだった。シャハトによって製造されたものに限れば、その製品には先見の明があり、基本的には、将来的に需要が増えるかも知れないものだった。シャハトが試みたのは、比較的早く、将来性をもったカメラ・メーカーの『ドアに足を突っ込む』ことだった。1953年、ヴィルギン社(Wirgin)のカメラ「コメット(Komet)」の広告では、カメラの下にシャハトの二本の交換レンズが見られるが、それはすなわち、85mm/f2.8と、135mm/f3.5の二本のTravenarである。


(訳注)Wirgin社のKomet は、M42マウントの一眼レフ。

(訳注)M42は、Kamera Werkstatten社の一眼レフであるプラクチナ、Wirgin社の一眼レフであるKometなど、エキザクタはJhagee社の一眼レフであるExakta向けなのだろうが、他にも当てはまるカメラはもちろんあるだろう。
 
(原注68)Taven-という名称は、あるインターネットのフォーラムでは、数年来知られるようになった冒険作家であるB. Traven(1882? – 1969)と関連付けている。Travenは、Ret Muratという名前でも本を出版しているが、彼の伝記は、すべてを明らかにしてはいない。2009年8月にベルリンで開かれた 「社団法人国際 B. Traven協会」(クリストフ・ルッズツーヴァイト博士)でその点が照会されたが、何も証拠は見出されなかった。それゆえ、シャハトについてのこの憶測は、根拠がないとされねばならない。

(訳注)訳者が入手したミュンヘン時代のレンズのうち2本にはオリジナルと思われるケースが付属していたが、その上蓋上面には「TRAVE」と記され、スポットライトか拍手を表しているのだろうか5本の光線、あるいは光背のような線が描かれている。ラテン語系のtraveには、イタリア語のtraveがあり、それと同根のフランス語のtravee(特殊記号は省略)があるのだが、後者には、「椅子の列に座っている群衆」の意がある。「皆が注目する」という意味なのだろうか? あるいは、彗星の尾? 「trave(l)=旅行」というタレントの連想ゲームのようなものよりは、むしろ信憑性があると思う。ちなみに、僕のラテン語の辞書は誰かに使われていて行方不明。イタリア語の辞書もなくなっていたので、職場のものを使った。また買うからよいけど(高いので少しだけプンスカ)。

ちなみに、ケースには、「Schacht」とは記載されてもいない! 
あたかも、「Trave」が商標のようでもある。非常に興味深い。 

★最初の写真レンズたち(35mm用)

 シャハトによる最初のレンズは、「Travenar」あるいは「Albinar」と名づけられた。その二つは、実際には異なった構造をとっていた。ひとつは、50mmと135ミリのための張り合わされたトリプレット(4枚3群)であり、同様にもうひとつは、85ミリと135ミリのための、これは純粋に四枚(4枚3群)の望遠レンズ構造のものだった。85mmと135mmのTravenarには、プリセット絞り、あるいはばねによって絞り込むトリガーが装備されていた。どちらの絞りも、開放値に設定した後、手動あるいはボタンを押すことで、すばやく設定した値まで絞り込むことができる。例外は、単に絞りヘリコイドにクリック感のあるだけのM39マウントの50mmの標準レンズであり、これは他のM39マウント用レンズでも同様だった。

ノーマル・レンズ「Travenar」50mm/f2.8(4枚3群)
 カメラ側には、クローム鍍金された真鍮のマウント部、軽金属で作られた焦点リング、ガイド付回転部、プリセット絞りとばねで動く絞りがM42とエキザクタのために加えられた。
 最小絞りは22、最短撮影距離は1m、重さ122グラム。




 ミュンヘン時代のシャハトの製品の中で、このレンズにはほとんどサンプルが存在しない。このシャハトのノーマル・レンズは、後になっても、カメラの標準レンズとしては提供されなかった。なぜなら通常、写真家にとっては新たに標準レンズを購入する必要はないのである。実際、このタイプで最も遅い時期のシャハト/ミュンヘンのレンズは、34268の番号を持つエキザクタ・マウントのものが知られている。より重要なのは、次に述べる望遠レンズであり、それは、写真家たちの可能性を広げることができたのである。

(訳注)ミュンヘン時代のTravenar 50mm の製品番号は、34..xxxである、と同書85頁にある。となれば、このレンズは268本しか製造されなかったことになる。対して85mmのTravenarは、2500本以上生産されたらしい。

(訳注)2014年末、あるオークションで出品されているのを見た。値段は2000円ほど。当時は、貴重であることを見逃していたのであっさりとスルーしてしまった(標準レンズだったこともある)。シリアル・ナンバーは3418X。マウントは不明。

望遠レンズ(Tele-Objektiv)「Travenar」85mm/f2.8 (4枚3群)
 カメラ側には、クローム鍍金された真鍮のマウント、軽金属で作られた焦点リング、ガイド付回転部、プリセット絞りとばねで動く絞り。マウントはM39、M42。
 最小絞りは32(後に22)、最短撮影距離は1m、重さ202グラム。




(原注69)このシャハトのレンズについて、R. グリットナー(Grittner) (1958:121)は、7枚構成のガウス=タイプとしている。しかしすべての既知の文献は、シャハトの85mmと90mmについてのその見解を否定している。

(訳注)訳者が入手したのは、M39マウントのもの。絞りにはクリック感がある。

望遠レンズ(Tele-Objektiv)「Travenar」135mm/f3.5(4枚4群)
 カメラ側には、クローム鍍金された真鍮製のマウント、軽金属で作られた焦点リング、ガイド付回転部、プリセット絞りとばねで動く絞り。マウントはM39、M42。
 最小絞りは32、最短撮影距離は1.5m、重さ368グラム。

(訳注)訳者が入手した、135mm f3.5のTravenarは、なぜかエキザクタ・マウント。それには、プリセット絞りに相当するものはついていない。製造時期により差があるということか? あるいは、訳がでたらめかのいずれか(たぶん後者。技術用語はよくわからないんです)。

長焦点レンズ(Langbrennweitiges Objektiv)「Albinar」135mm/f4.5(4枚3群)
 カメラ側には、クローム鍍金されたマウント、軽金属で作られた焦点リング、ガイドのない回転部、マウントは、M39、M42、エキザクタ。最小絞り32、最短撮影距離1.5m、274グラム。この張り合わせ式のトリプレットは、「Travenar」135mmの代わりに提供されていた。「Albinar」という名称は、わずかに1953年頃までの数年しか使われなかった。

 1953/1954年頃にAlbinar の後を継いだのは、光学的に同じ値のTravegon 135mm/f4.5だった。

 カメラ側には、クローム鍍された真鍮製のマウント、軽金属で作られた焦点リング、ガイドのない回転部、マウントは、M39、M42、エキザクタ。最小絞り32、最短撮影距離1.5m。





 単純な構造のAlbinar と対照的に、135mm/f4.5のTravegon(後の広角レンズであるTravegonと混同しないこと)は、機械的にはいわゆる「分離可能」なレンズとして開発された。長焦点のテッサー型は、レンズ部分と絞りがレンズの先端部に集まっており、この光学的/機械的なシステムは、いわゆる「レンズの頭部」の取り外しが可能なユニットである。ライカのM39マウントを選択したことで、分離されたレンズ部分はベローズでの接写にも使用できたし、並びに拡大鏡としても使えるものだった。これは概して、生産者にとって非常に経済的であったと同時に、利用者にとっては、潜在的に汎用性の高い構造を持つが故に手ごろな価格であったが、光学的に解放値が暗いという欠点も持っていた。残りの鏡筒を構築することは容易であった。つまり、直進部分を持たないヘリコイド(???)だけで、追加のレンズや絞りが不要であるからである。

(訳注)訳者が手に入れたTravegon 135mm f4.5は、鏡筒の途中に分離できるが見当たらない。小さなネジが三箇所あるが、分解するのが怖すぎる。恐らく、さまざまなヴァリエィションがあったのだろう。

(訳注)一方で、訳者が手に入れたエキザクタ・マウントのTravenar 135mm f3.5 は、鏡筒の途中で分離できる。しかし、分離した先端部分のマウントは通常のM39ではなく、プロジェクションのレンズのような幅の広い溝がきられている。これも謎だ。

 50mmのノーマル・レンズを除き、これらのレンズには、M型ライカのためのM39マウント用のものがあった。ライカ版のレンズのみが、通常のクリック感のある絞りを備えていた。135mm/f4.5のAlbinarとTravegonだけがライカの距離計に対応していたことは、言及に値する。(以下3行、なぜこの日本のレンズがライカの距離計に連動していたかを説明する文章があるが、技術的な単語が多くて、意味がつかめない。すみません。)

※判らない部分の原文を掲載しようとしたら、版元から許可が得られませんでした(クレームを頂戴いたしました)。ご興味のある方は、書籍を入手して頂けますようお願いいたします。

 さて、次なる部分では、munhen/ulm 時代の製品の特長が語られます。

 にしてもですね、色々と話題になっているような(伝聞)、




左から、Em-Travenar 90mm f2.8、Travenar R 90mm f2.8、 travenar 85mm f2.8.

 90㎜(LTM)と85mm(LTM)は、焦点距離が少々違うだけでサイズにはあまり変化はない。ライカの距離計に合わせるためか? 転じてM42の90㎜ f2.8は、どうしても鏡筒が短い。恐らく、工学系にも大きな変化があったのだろう(と)。

 あー、試写の時代に戻りたい。でもね、冬は寒いんですよ。




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